東大、2020年、入試、国語、第一問。現代文

東大、2020年、入試、国語、第一問。現代文

*このブログで「漢字書き取り」として扱ったものが東大で語彙が的中。
所与https://ak1kbs.hatenablog.com/entry/2019/10/25/104729
詭弁https://ak1kbs.hatenablog.com/entry/2019/10/28/083923
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。東大、2020年、入試、国語、第一問。

学校教育を媒介に階層構造が再生産される事実が、日本では注目されてこなかった。
米国のような人種問題がないし、英国のように明確な階級区分もない。
エリートも庶民もほぼ同じ言語と文化を共有し、話をするだけでは相手の学歴も分からない。
「一億総中流」という表現もかつて流行した。
そんな状況の中、教育機会を均等にすれば、貧富の差が少しずつ解消されて公平な社会になると期待された。
しかし、ここに大きな落とし穴があった。
機会均等のパラドクスを示すために、二つの事例に単純化して考えよう。
ひとつは戦前のように庶民と金持ちが別々の学校に行くやり方。
もうひとつは戦後に施行された一律の学校制度だ。
どちらの場合も結果はあまり変わらない。
見かけ上は自由競争でも、実は出来レースだからだ。
それも競馬とは反対に、より大きなハンディキャップを弱い者が背負う競争だ。
だが、生ずる心理は異なる。貧乏が原因で進学できず、出世を断念するならば、当人のせいではない。
不平等な社会は変えるべきだ。
批判の矛先が外に向く。
対して自由競争の下では違う感覚が生まれる。
成功しなかったのは自分に能力がないからだ。
社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。
アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)は、個人間の能力差には適用されない。
人種・性別など集団間の不平等さえ是正されれば、あとは各人の才能と努力次第で社会上昇が可能だと信じられている。
だからこそ、弱肉強食のルールが正当化される。
(ア)不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった一因はそこにある。
子どもを分け隔てることなく、平等に知識をツチカう理想と同時に、能力別に人間を格付けし、差異化する役割を学校は担う。
そこに矛盾が潜む。出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として、能力主義(メリトクラシー)は歓迎された。
そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という。
平等な社会を実現するための方策が、かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる。
社会を開くはずのメカニズムが、逆に社会構造を固定し、閉じるためのイデオロギーとして働く。
しかし、それは歴史の皮肉や偶然のせいではない。近代の人間像が必然 的に導く袋小路だ。
親から子を取り上げて集団教育しない限り、家庭条件による能力差は避けられない。
そのような政策は現実に不可能であるし、仮に強行しても遺伝の影響はどうしようもない。
身体能力に恵まれる者も、そうでない者もいるように、勉強のできる子とそうでない子は必ず現れる。
算数や英語の好きな生徒がいれば、絵や音楽あるいはスポーツに夢中になる子もいる。
それに誰もが同じように努力できるわけではない。
近代は神を棄て、〈個人〉という未曾有の表象を生み出した。
自由意志に導かれる主体のタンジョウだ。
所与と行為を峻別し、家庭条件や遺伝形質という〈外部〉から切り離された、才能や人格という〈内部〉を根拠に自己責任を問う。
だが、これは虚構だ。
人間の一生は受精卵から始まる。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。
我々は結局、外来要素の沈殿物だ。
確かに偶然にも左右される。
しかし偶然も外因だ。
能力を遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定立できなくなる。
社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。
認知心理学脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。
外因をいくつ掛け合わせても、内因には変身しない。
したがって(イ)自己責任の根拠は出てこない
遺伝や家庭環境のせいであろうと、他ならぬ当人の所与である以上、当人が責任を負うべきであり、
したがって所与に応じて格差が出ても仕方ない。
そう考える人は多い。では身体障害者はどうするのか。
障害は誰のせいでもない。それでも、不幸が起きたのが、他でもない当人の身体であるがゆえに自業自得だと言うのか。
能力差を自己責任とみなす論理も、それと同じだ。
封建制度カースト制度などでは、貧富や身分を区別する根拠が、神や自然など、共同体の〈外部〉に投影されるため、不平等があっても社会秩序は安定する。人間の貴賤は生まれで決まり、貧富や身分の差があるのは当然だ。平等は異常であり、社会の歯車の が狂った状態に他ならない。
対して、自由な個人が共存する民主主義社会では平等が建前だ。
人は誰もが同じ権利を持ち、正当な理由なくして格差は許されない。
しかし現実にはヒエラルキーが必ず発生し、貧富の差が現れる。
平等が実現不可能な以上、常に理屈を見つけて格差を弁明しなければならない。
だが、どんなに考え抜いても人間が判断する以上、貧富の基準が正しい保証はない。
下層に生きる者は既存秩序に不満を抱き、変革を求め続ける。
〈外部〉に支えられる身分制と異なり、人間が主体性を勝ち取った社会は原理的に不安定なシステムだ。
近代の激しい流動性の一因がここにある。
支配は社会および人間の同義語だ。
子は親に従い、弟子は師を敬う。部下が上司に頭を垂れ、国民が国家元首に恭順の意を表す。
「どこにもない場所」というギリシア語の語源通り、支配のないユートピアは建設できない。
ところでドイツの社会学マックス・ヴェーバーが『経済と社会』で説いたように、支配関係に対する被支配者の合意がなければ、ヒエラルキーは長続きしない。
強制力の結果としてではなく、正しい状態として感知される必要がある。
支配が理想的な状態で保たれる時、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のごとく作用する。
(ウ)先に挙げたメリトクラシー詭弁がそうだ
近代に内在する瑕疵を理解するために、正義が実現した社会を想像しよう。
階層分布の正しさが確かな以上、貧困は差別のせい でもなければ、社会制度にケッカンがあるからでもない。
まさしく自分の資質や能力が他人に比べて劣るからだ。
格差が正当では ないと信ずるおかげで、我々は自らの劣等性を認めなくて済む。
しかし公正な社会では、この自己防衛が不可能になる。
底辺に置かれる者に、もはや逃げ道はない。
理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。
身分制が打倒されて近代になり、不平等が緩和されたにもかかわらず、さらなる平等化の必要が叫ばれるのは何故か。
人間は常に他者と自分を比較しながら生きる。
そして比較は必然的に優劣をつける。
民主主義社会では人間に本質的な差異はないとされる。
だからこそ人はお互いに比べあい、小さな格差に悩む。
そして自らの劣等性を否認するために、社会の不公平を糾弾する〈外部〉を消し去り、優劣の根拠を個人の〈内部〉に押し込めようと謀る時、必然的に起こる防衛反応だ。
自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。
逆だ。
格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣 言する。
努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。
(エ)近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ

(小坂井敏晶「『神の亡霊』6 近代の原罪」による)

設問
(1)「不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった一因はそこにある」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(2)「自己責任の根拠は出てこない」(傍線部イ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。

(3)「先に挙げたメリトクラシーの詭弁がそうだ」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

(4)「近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ」(傍線部エ)とは どういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。

(5)傍線部a・b・cのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
aツチカう、bタンジョウ、cケッカン

解答例は⇒https://ak1kbs.hatenablog.com/entry/2020/02/29/235847某大手予備校の「解答例」を採点もしてみました。

*当ブログの筆者の略歴;
一橋大学・卒。(+東大・理2、再受験で合格親に止められ入りなおし進学は出来ず。)
プロ家庭教師
講師歴サピックス駿台予備校、医学部専門予備校、など
合格実績;東大、京大、阪大(医学部・医学科)名古屋大学(医・医)東北大学(医・医)九州大学(医学部・医学科)など